リスクが見えないのは、存在しないからではない

— 材料と構造がなければ、リスクは成立しない —

Risk Is Not Invisible Because It Does Not Exist

— Without Data and Structure, Risk Cannot Be Formed —


はじめに

職場ではしばしば、

「リスクが見えない」

「評価ができない」

といった言葉が使われます。

しかし多くの場合、

それは

リスクが存在しないからではありません。

問題は、

リスクを成立させるための前提が揃っていないこと

にあります。

リスクとは、

考えるものでも、感じるものでもなく、

一定の情報によって構成されてはじめて成立するものです。

本稿では、この前提に立ち、

産業医がリスクを述べるために必要な条件と、

その中での健康診断(特殊健康診断)の位置づけについて整理します。

なお、本稿で扱う「健康診断」は、

一般的な定期健康診断(general health checkups)ではなく、

有害業務に関連して実施される、リスク評価を前提とした健康診断

(いわゆる特殊健康診断:special health examinations

を指します。

リスクが「評価されていない」のではない

職場において、

• 「リスクアセスメントができていない」

• 「リスク評価が不十分である」

といった表現が使われることがあります。

しかし実際には、

評価が行われていないのではなく、

評価に必要な材料そのものが存在していない

という状況が少なくありません。

あるいは、

材料が存在していても、

意思決定に使える形に構造化されていない

というケースも多く見られます。

リスクは「考えるもの」ではなく「構成されるもの」

リスクとは、主観的に「感じる」ものではありません。

本来は、

一定の情報に基づいて構成されるもの

です。

例えば、化学物質ばく露のリスクを考える場合:

• 作業内容(どの工程で発生するか)

• 使用物質(成分・有害性)

• 作業時間・頻度

• 換気・局所排気の状況

• 保護具の使用状況

• 個人ばく露測定結果

これらが揃ってはじめて、

リスクは「説明可能な形」で存在する

ようになります。

多くの職場で起きていること

実際の現場では、

• 作業環境測定はあるが、個人ばく露が不明

• SDSはあるが、実際の使用状況が不明

• 健康診断は行っているが、ばく露との関係が不明

といった、

情報が分断された状態

が多く見られます。

この状態では、

リスクは「あるかもしれないもの」として扱われ、

意思決定に使える情報にはなりません。

健康診断は「入口」ではなく「最終段階」である

ここでしばしば起きるのが、

• 「とりあえず健康診断を実施する」

• 「特殊健診を追加する」

という対応です。

しかしこれは、本来の順序とは逆です。

本稿で扱う特殊健康診断は、

リスクが存在するという前提のもとで行われる“結果の確認”

です。

つまり、

• リスクの同定

• ばく露の把握

• 作業条件の整理

が先にあり、

その上で初めて、

健康影響の確認としての健診が位置づけられる

べきものです。

産業医の役割

— リスクを「述べる」ための条件を示す —

産業医は、

単に「リスクがある/ない」を判断する存在ではありません。

意思決定そのものを担うのではなく、

その前提条件を整える役割

を担います。

むしろ重要なのは、

リスクを述べるために何が必要かを明示すること

です。

例えば:

• 個人ばく露測定が必要である

• 作業実態の把握が不足している

• 保護具の適合性評価が必要である

といった形で、

意思決定に必要な情報の欠落そのものを指摘する

ことが求められます。

意見とは「結論」ではなく「意思決定への接続」である

ここで重要なのは、

産業医意見とは、完成された結論ではない

という点です。

意見とは、

意思決定に必要な情報の状態を示すもの

です。

したがって、

「判断できない」という状態であっても、

それは不十分な意見ではなく、構造的に正しい意見です。

おわりに

職場において、

リスクが見えないのは、

リスクが存在しないからではありません。

それを構成する

材料が存在していない、

あるいは構造化されていないからです。

そして、その状態のままでは、

意思決定は成立しません。

産業医の役割は、

リスクを断定することではなく、

リスクを成立させるための構造を明らかにすること

にあります。

Keywords

• Special Health Examinations

• Risk Assessment

• Exposure Measurement

• Occupational Health

• Decision-Making

• Structural Accountability Theory